弔うということ・其の2。
2003年5月6日最近毎日更新できなくてごめんなさい。。
ガムバリマッスル。
昨日は必死こいて喪服を買い揃えておりました。
そんなわけで今日は、先日亡くなられた先生の
お通夜に行ってまいりました。
こないだの日記のラストで、
『お盆に逢いましょう』
みたいなこと書いてますが、よくよく考えると
先生はレッキとしたクリスチャンだったのでした・・・。
カソリック系のお葬式初めて。
もっち教会でのお式です。
しかも先生の実家が教会やっておられるので、
司会&牧師(神父だっけ・・・?)は
先生の息子さん。
お焼香のしかたも最早曖昧なメロ。
キリスト教のお式がどういう具合に進行してゆくのか
まったく見当もつかず内心ドキドキしていたら、
最初に式次第のようなものを渡されました。
中身はまるで台本のようで
牧師様が何を言うのか、どこで「アーメン」と言えばいいのか等
書かれていてわかりやすかったです。
楽譜もたくさんついてたし。
ひと安心。
先生は肺癌から肺炎を併発されて亡くなったのですが
その闘病生活のエピソードを、牧師である息子さんから色々聞けました。
容態がいよいよ、というときに
奥様が「パパ、愛してるよ」と声をかけると、
息も絶え絶えでうんうんと頷いて、「愛してる」と返されたこと。
かっこよすぎだから、センセ・・・・。
その直後のことばが遺言となったそうです。
「私の人生は、みんなは、ソウガクだ」
先生のご家族:「ソウガク?ソウガクってなに?」
先生の奥様:「商学?」
先生:「違う、ソウガク、SOGAKU!」
『「ソウガク」ってなんだろう、これが遺言だとちょっと謎だ』
と息子さんは思われたそうです。
んが、その後、
「ソウガク」は「奏楽」であることだと
ご家族は解釈されたそうです。
先生の人生も、ご家族も、森羅万象すべてが、
ひとつの旋律を奏でるためのたいせつな要素だということです。
美学を持ち合わせた、ひとりの音楽家である、
実に先生らしい最期のお言葉です。
式では、先生のもうおふたりの息子さん(音楽家)
が作曲し、牧師の息子さんが作詞した
オリジナルの聖歌も歌われました。
先生の病床において、つくられたそうです。
その曲には、「いのちを奏でよ〜SOGAKU〜」という
タイトルがつけられていました。
なんていうか・・・。
この全部通して、すっごくいいお葬式でした。
牧師さんのお話は、ユーモアも交えた心温まる
お話だったし、
聖歌・賛美歌・詩篇をふんだんに盛り込んでいて
とても明るいお式でした。
根底にエンターテイメントがありました。
音楽家ならではというかんじ。
今回はじめてカソリック系のお葬式出て
気づいたのだけど、キリスト教は
『兄弟は世を去りました、今は主の永遠のみ光を浴び、
平安の世界で主とともに喜び楽しみます』
とズバリ言い切るのですな。
これって仏教とだいぶ違うなぁ。
なんていうか、
日曜日の日記でも書きましたが、
「なんとなく逢える気がする」てのは
やっぱり日本ならではかも。
たとえこの世に未練なく成仏したとしても、
キリスト教のように
「もうここにはいないよ、神様のもとに無事召されましたから」
と言い切られないと、
なんとなくそのへんにいる気がします。。。
ほら、お盆に帰ってきちゃうし。
家に帰るとお清めのお塩をわざわざかけるでしょ。
これってやっぱり『憑いてるかんじ』がするからでしょ。
・・やっぱり文化って様々ですねー。
『憑いてるかんじ』は嫌いじゃないですが。
(ヌルい締めかた・・・)
★おまけの雑学★
江戸時代の戯作家・鶴屋南北は、
自分のお葬式で弔問客に万歳三唱をさせたそうです。
暗いのがヤだったんですって。
よっ、粋だねベラボーめぃ。
ガムバリマッスル。
昨日は必死こいて喪服を買い揃えておりました。
そんなわけで今日は、先日亡くなられた先生の
お通夜に行ってまいりました。
こないだの日記のラストで、
『お盆に逢いましょう』
みたいなこと書いてますが、よくよく考えると
先生はレッキとしたクリスチャンだったのでした・・・。
カソリック系のお葬式初めて。
もっち教会でのお式です。
しかも先生の実家が教会やっておられるので、
司会&牧師(神父だっけ・・・?)は
先生の息子さん。
お焼香のしかたも最早曖昧なメロ。
キリスト教のお式がどういう具合に進行してゆくのか
まったく見当もつかず内心ドキドキしていたら、
最初に式次第のようなものを渡されました。
中身はまるで台本のようで
牧師様が何を言うのか、どこで「アーメン」と言えばいいのか等
書かれていてわかりやすかったです。
楽譜もたくさんついてたし。
ひと安心。
先生は肺癌から肺炎を併発されて亡くなったのですが
その闘病生活のエピソードを、牧師である息子さんから色々聞けました。
容態がいよいよ、というときに
奥様が「パパ、愛してるよ」と声をかけると、
息も絶え絶えでうんうんと頷いて、「愛してる」と返されたこと。
かっこよすぎだから、センセ・・・・。
その直後のことばが遺言となったそうです。
「私の人生は、みんなは、ソウガクだ」
先生のご家族:「ソウガク?ソウガクってなに?」
先生の奥様:「商学?」
先生:「違う、ソウガク、SOGAKU!」
『「ソウガク」ってなんだろう、これが遺言だとちょっと謎だ』
と息子さんは思われたそうです。
んが、その後、
「ソウガク」は「奏楽」であることだと
ご家族は解釈されたそうです。
先生の人生も、ご家族も、森羅万象すべてが、
ひとつの旋律を奏でるためのたいせつな要素だということです。
美学を持ち合わせた、ひとりの音楽家である、
実に先生らしい最期のお言葉です。
式では、先生のもうおふたりの息子さん(音楽家)
が作曲し、牧師の息子さんが作詞した
オリジナルの聖歌も歌われました。
先生の病床において、つくられたそうです。
その曲には、「いのちを奏でよ〜SOGAKU〜」という
タイトルがつけられていました。
なんていうか・・・。
この全部通して、すっごくいいお葬式でした。
牧師さんのお話は、ユーモアも交えた心温まる
お話だったし、
聖歌・賛美歌・詩篇をふんだんに盛り込んでいて
とても明るいお式でした。
根底にエンターテイメントがありました。
音楽家ならではというかんじ。
今回はじめてカソリック系のお葬式出て
気づいたのだけど、キリスト教は
『兄弟は世を去りました、今は主の永遠のみ光を浴び、
平安の世界で主とともに喜び楽しみます』
とズバリ言い切るのですな。
これって仏教とだいぶ違うなぁ。
なんていうか、
日曜日の日記でも書きましたが、
「なんとなく逢える気がする」てのは
やっぱり日本ならではかも。
たとえこの世に未練なく成仏したとしても、
キリスト教のように
「もうここにはいないよ、神様のもとに無事召されましたから」
と言い切られないと、
なんとなくそのへんにいる気がします。。。
ほら、お盆に帰ってきちゃうし。
家に帰るとお清めのお塩をわざわざかけるでしょ。
これってやっぱり『憑いてるかんじ』がするからでしょ。
・・やっぱり文化って様々ですねー。
『憑いてるかんじ』は嫌いじゃないですが。
(ヌルい締めかた・・・)
★おまけの雑学★
江戸時代の戯作家・鶴屋南北は、
自分のお葬式で弔問客に万歳三唱をさせたそうです。
暗いのがヤだったんですって。
よっ、粋だねベラボーめぃ。
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