弔うということ。

2003年5月4日
2日の晩に、大学でお世話になっていた先生が
亡くなりました。
そんな内容の友達からの連絡網。
連休明けにお葬式とのこと。

映画音楽作曲家の先生で、
ほかにコマーシャル曲もてがけていました。
奥様に
『チャオ〜♪』
と電話する、素敵教授でした。

前々から体の調子がよろしくないと
聞いていて、入院したことも知っていたけど、
ご本人が復帰意欲満々だとも聞いてたから、
なんとなくまた
中庭でバッタリ会える気がしていました。
そんでそのままダラダラと音楽について
話せる気がしてたのです。
うちの大学の教授陣のなかでも、
生徒に理解があり、美学も持ち合わせた
ほんとにいい先生でした。


・・・・なんだかなぁ。

ひとがなくなるということは、
ほんとにあっさりしている。

身体の調子が悪いとか、入院しているとか、
そういう伏線は
「本人が復帰意欲満々」
という事実のもとでは
なんの効果も及ぼさないのですな。

どうしても『突然』な気がする。
悲しいことよりびっくりすることのほうが大きいな。

友達のパパやママが亡くなったときも、
同級生が亡くなっときも、
祖母が亡くなったときも、
飼ってる鳥が死んだときも、
なんかあんまり涙は出なかった。

そりゃ悲しかったしさびしかったけど、
それ以上になんていうか、、、

プラ・マイ・ゼロになったかんじが大きかった。です。

これはなんなんだろうなぁ。
実際に本人の遺体を目の前にしても、
なんか、「そのひとが置いていったもの」
にしか見えなかった。
脱いでいった衣服のような。

知らないうちに行っちゃったから、
遠くに行ってない気がします。
置いて行ったから、取りに戻るかもしれない。

でも戻ってこないんだよなー、
結構な忘れ物だよ、これ・・・。
取りに来ないうちに燃やしたり埋めたりしちゃうのね。
あーあ・・・。

「あーあ・・・。」
そんなのが、私が持つ死のイメージです。
いいの?いいの?って思ってるうちに
お葬式が終わっている。
もちろん本人は戻ってこないわけで。

だから、私がほんとに
そのひとがいなくなって寂しくなるのには
ちょっと時間がかかります。
お通夜やお葬式ではボーッとしてます。
なんかねー、どこかにいる気がするのよー。
逢える気がするの。何かをがんばれば。

祖母は亡くなってから、一年間くらい
うちのいちばん日当たりの良い部屋にいました。
なんか、いたのよ。。。
見えなかったし聞こえなかったけど、
なんか、いたのよ。。。。

ある日、あれ?部屋がからっとしてるな。
と思ったのが、、一周忌が過ぎた頃だったのです。
ふしぎ。


今回の先生のお葬式も、おそらく
ボーっとしてしまう。
きっとろくな事言えずに「どうもどうも」
みたいなノリで行ってしまいそう。
先生、ごめんなさい・・・・。

お盆にでもうちに寄ってってくださいな。
また音楽の話聞かせてください。
ドイツのクルト・ワイルについて色々聞きたいことあるんですよ。

なんてね。

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